私が教育に携わりたいと思う理由と、そのプラン

 

「教育に携わりたい」

 最近、私が強く感じていることだ。なぜそう思うのかを、自分の夢を含めて、またどのような形で関わっていくかを書かせていただいた。着実に現実的になっているプロジェクト。成功するかどうかは分からないが、今は動き出さなければいけないという思いが強い。協力してくれる人が多ければ多いほど、実現する可能性は高くなるはずだ。

 この文を読んで、何か関わりたいと思った人がいたら教えていただきたい。今はまだ少人数で活動しているが、方向性が定まってきた段階で協力を募るかもしれない。もちろん、反対意見、要望、アドバイスなどがあれば聞かせていただきたい。
 では、長くなるが、お付き合いいただければ。

「ジャーナリスト」という自分自身の目標

 私の人生の目標は「サッカーを切り口とした国際ジャーナリスト」となって、「世界の声」を日本に伝えていくことだ。その夢について簡略に書かせてもらう。

 ご存知の人も多いだろうが、私はイスラエルを旅したことがある。日本の書籍や、テレビや新聞での報道を見ていて、イスラエルが危険な国であると感じていた。なので不安は少なからずあった。不安というのは、テロの危険性や、ユダヤ人、パレスチナ人の仲が険悪なのではないか、などだ。

 しかし、現地に行ってみて、旅する前に抱えていた不安は一切感じなかった。その時、日本での報道と、現地での生活の間にあまりにもギャップがありすぎると愕然とした。偏った報道だけでなく、現地の「リアル」な声を届けたいという想い、また、世界情勢をもっと多くのことに知ってもらい当事者意識を持ってほしいということから、私はジャーナリストを志すようになった。

 サッカーを切り口に、というのにも理由がある。サッカーは、世界一のスポーツだ。競技者人口を考えてもそうだし、ボール1つあればそこでサッカーができることから、「人が生活しているところにはサッカーがある」とまで言われるほどである。この「世界一のスポーツ」に可能性を見出した。サッカーを切り口にして伝えていくことが出来れば、サッカーが好きな層にアプローチでき、なおかつ、情報を得ようとする人が増えるのではないか、という考えがあったからである。

 ここでは、「サッカーを切り口とした国際ジャーナリスト」を志す理由を書かせていただいた。次は、なぜ教育に携わりたいと思ったのか、そのきっかけを書かせていただく。

教育系組織を作ろうと思ったきっかけ

 前述の通り、私は教育に携わりたいと思っている。結論から言えば、教育系の組織を設立したいと考えている。では、どういう経緯でそう思ったのか。それは、自分がジャーナリストとなった時に、伝えていける場を作りたいと思ったことからだ。

 今いるジャーナリストの「伝える」場は、大学の教壇、書籍、テレビ、など。たしかにいろいろな場所がある。だが、それらの人たちはいわば「スター」的存在の人が多いように思える。このような人たち以外にも活躍している日本人は世界中にいるが、伝える場が飽和状態にあると感じた。普通の人が経験していないようなことを体験し、あらゆることを感じている人たちが発言していく場所を提供したいと思った。これは、自分自身が将来ジャーナリストとして活動していく上でも重要な「場」になると思っている。そのような「場」の土台を作っておくことは意味があることだと感じた。

情報の「取捨選択」ができない環境

 Twitterなどを介して人に会うと、様々な考え方を持った人に出会う機会が多い。海外に目を向けて実際に海外で働いている人、今までにない新しい分野でアイデアを出し、それを達成するために起業した人、自分の長所を仕事に活かす人、自分の足りない部分を冷静に分析し、起業しつつ、大学院進学を考えている人…。本当にいろいろな人がいて、尊敬できる人ばかりだ。

 彼らに共通して言えるのは、自分が生涯を通じてしたいことがはっきりしているということ。彼らはなぜはっきりしているのか。それは、彼らが自ら情報を得ようとし、実際に得て、自分なりの考えを持ち、それに対して人と議論し、何が自分のやりたいことか、またはそうではないことか…。要は、情報の取捨選択ができているのだ。

 もちろんそういう人たちばかりではない。将来、自分が何がしたいのかが分からない人や、そんなことすら考えていない人もいる。しかしながら、これは普通のことである。帰納法的に言えば、「やりたいことがはっきりしていない人は、情報の取捨選択ができていない」のである。いや、これは少し強引すぎたかもしれない。情報の取捨選択の前に、情報を得ていない人が多すぎるのであろう。知らなければ考えることも出来ないし、議論もできない。議論ができなければ、自分の考えを持つのは難しくなるので、自分自身のことも分からない。

「自分を見つめる機会がないから、やりたいことも見つからないのではないか」と、考えるようになった。

 情報の取捨選択ができる人は、能動的に動いて情報を得ようとする。例えば、自分の興味のある人の講演会に足を運んだり(自分がどんな人に興味があるかも、自分で動き、どこかしらで情報を得てくる)、交流会に参加したりする。自分から動けば、可能性はいくらだって転がっている。

 ここで少し私自身の話をすると、イスラエルから帰国後、もっと学ぶことが必要だと感じた私は、WorldShift Actionsという講演会に参加した。その時の講演会の詳細や、そこから自分が感じたことは、こちらのエントリを参照していただきたい。乱雑な文ではあるが、そこはお許しいただければ、と思う。
(こちらから→WorldShift Actions

 話を戻す。一方、情報の取捨選択ができない人はどうか。言えることとしては、能動的に動いている人が比較的少ない。講演会に行くにしても、自分がどんな講演会に行ったらいいか分からない、まず、そういう講演会がどこでいつやっているのかも情報として入ってこない。無理矢理なこじつけかもしれないが、受動的な人には、やりたいことが見つかっていない人が多い。そうは言っても、「明日からは能動的になれ!」と言ってすぐになれるような簡単なことではない。私はここがポイントだと感じた。「受動的なまま、能動的な情報を得られる仕組み」を作ればいいのではないだろうか。そして、一番適しているのが、義務教育の場であると考えた。

どこに「伝える場」を作るべきか

 小学生や、中学生の時を思い出していただきたい。年に数回、学校の全生徒が集まり講演会などがあっただろう。何が始まるのかよく分からないまま体育館に集合して、誰かよく分からない人の話を聞いて、その後教室に戻ってから感想文を書かされて…。こんな経験は誰しもがしていると思う。年に数回しかなかったが、その時の話は今でも頭の片隅に残っている。あのような形の、もっと小規模なものを年間通じて運営出来れば、「自分から動かないと得られない情報を提供できる仕組み」になり得るのではないかと考えた。

 大学でそのような時間を作ればいい、と思う人もいるかもしれない。だが、それでは遅い。現状を見てみると、選択肢が提示されていない状況で高校を選び、大学で自分の将来と向い合って考える時間を作ればいいという風潮がある。しかし、それではうまく回っていかないことは今の就職活動1つ見ても明らかである。自己分析の時間が足りず、将来自分が何をしたいのかあやふやなままで就職活動をし、新卒3年以内で退職をする若者が3分の1とまで言われている。これは自己分析の時間が足りないことも影響していると思う(もちろんそれだけではないと思うが)。

 また、義務教育が最適なのはもう1つ理由がある。それは「義務教育」であることだ。そのままだと思われるかもしれないが、これが重要なことなのである。高校や大学でこのような組織を作っても、その時点で選別された人間しか残っていないのだ。義務教育ならば、否応なく全ての人に関わることができる。全ての人に、「伝える場」を通じてあらゆる情報を提供したいと考えている。

 私の理想では、義務教育の段階であらゆる選択肢を提示し、自分が将来何をしたいのか、ということと向き合う時間をなるべく多く作りたいと思っている。例を出せば、例えば中学生の時に医者になりたいと感じるのと、大学生の時に医者になりたいと感じるのでは、どちらがその目標に向かって行動しやすいか、というのは自明である。

 また、根本的なところを突き詰めていくと、義務教育での教育がその人の人格構成の軸になっていると感じる。小さい頃にあらゆる経験をしておくと、大人になった時に多様性のある人間に育つはずだ。

具体的にどういった形式でやっていくか

 次に、具体的にどのような形式でやっていくかということを書かせていただく。話の流れから分かるかと思うが、様々な経験をされている方の授業を受けることをメインで考えている。ジャーナリストの「伝える場」を作る目的でこのようなことを考えたのだが、これはジャーナリストだけでなく、汎用性があるのではと感じた。ジャーナリストをはじめ、会社の社長、NPOの代表、政治家、被災地支援ボランティアの方、ミュージシャン、農家、旅人…どんな人だっていい。きっかけがなければ知ることがないであろう人たちの授業を受けることによって、様々な情報を知ることができる。興味も湧いてくるだろう。これによって、情報を得るということはできる。

 だが、これだけだと頭の中に残る授業には成り得ない。年に数回の講演会で一番大事だったのは「感想文を書く」ということだ。これは極めて重要なことで、その講演会を振り返り、頭の中で思い返してから自分なりの言葉で書くということができる。そうすることによって、自然と印象的だった話題が自分の頭の中に残るため、印象深い出来事としてインプットされる。だが、この仕組みだと「情報の取捨選択」はできない。次のステップが必要なのだ。

 得た情報を「取捨選択できる」ようになるために、講演会の仕組みよりもよい形を導入したいと考えている。それは、「議論の場を作ること」だ。感想文の場合、自分の言葉で書き記すだけでよかったが、議論になるとその言葉で相手を説得する必要性が出てくる。そのためには、より深くそのことに対して理解しなければならないし、そのための準備も必要になってくる。

 そこで私が考えているのは、週に1回ずつこの授業を行う。そして、2週間を1タームとし、最初の週は授業形式で、次の週は議論の場を設置する、というものだ。1週間時間を与えているのは、先ほど言ったように、議論で相手を説得するにはそれなりの準備が必要であるからだ。

 議論のやり方や、どのような内容で議論をするのか、というのはまだ詰まっていない部分である。だが、外枠としてはこのような仕組みを導入したいと思っている。

「あなたのやりたいことは何ですか?」

 この問いかけにすぐに答えられるような人を増やしたい。たくさんの情報を得て、感じ、そこから自分の意見を持ち、自分のやりたいことへと繋げていけるような手助けがしたいと思っている。もちろん、選択肢が増えることによって悩む人も出てくるだろうが、そこに対するフォローも考えている。これについては、まずこのプロジェクトが実現してからでも遅くないだろう。

 教育系組織設立については、自分の地元で可能性を探っている段階だ。まだまだ先の話にはなりそうだが、そこで成功事例をつくって、日本中に広げていけたらいい。その時にいろんな人の協力が必要になってくる。どういう展開になるかはまだ分からない。だが、現状はそんなことを考えている。最初にも書いたが、色んな意見を聞きたいので下記のコメント欄などでリアクションしていただけたら嬉しい。

「やり直しができる社会」より、やり直さなくてもいいように「きちんと選択ができる社会」をつくっていきたい。

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[連絡先]

yuukimiura
yuuki.yuk014[at]gmail.com([at]を@に変えて)

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「議論」ができない人は寂しい

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(Flickr/starmanseries)

議論。
それぞれの考えを述べて、論じあうこと。また、その内容。

ディベート。
特定のテーマについて、肯定・否定の二組に分かれて行こなう討論。

討論。
ある問題について、互いに意見を述べ合うこと。ディスカッション。

引用:広辞苑

まあ、こんなところでしょうか。

で、いきなりですが、最近感じたことがあったので、メモ程度に書かせていただきます。

見渡してみると、議論できない人には2種類あるのかなと思います。

  • 自分の考えを持っていない人。
  • 人の話に耳を傾けない人。

議論ってすごく大事だと思うんですよ。
議論ができる人って、自分の考えを持っている人なんですよね。
「私はこの問題についてはこんなこと考えてる」とか胸を張って言える人。

でもね、それだけで終わっちゃ駄目だと思う。
「人の意見に耳を傾けること」。
これが、議論の中で結構重要なんですよ。

自分の考えを話すこと。そして、人の意見に耳を傾けること。

人の話を聞くことは、すごく好きです。
今まで自分の中になかった考え方や、知識を得ることができるから。
同じ意見だったとしても、新しい視点を提供してくれるかもしれないから。

結局、こういうことに耳を傾けない人っていうのは、自分勝手になっていくと思うんです。
自己主張と、自分勝手が違う点はそこかなあ。

日本ではよく「自己主張」できる人が少ないと言います。
意見をたたかわせる場所が少ないから、自分の意見を持つ必要もない。
だから、そういう場に直面しても、その場限りの対応しかしない。
でもそれは結局、自分の意見ではない。

逆に自分勝手な人ってどういう人かなって考えたら、
良く言えば自分を持ってる。
悪く言えば無駄に頑固。

自分の意見を持って、人の話を聞くようにすること。
大事だよなあ、とつくづく。

自分の意見を持っていない人も寂しいですが、持っていたとしても自分の意見に「改良」を加えることをしない人も寂しいですね。

人の話を聞く。理解する。自分の中に落とし込む。自分なりにアレンジする。発言する。それがだんだん自分の言葉になる。

そうやって、自分を持つことができる人が増えたらいいのになあ。