インドの国技は何?コルカタで寝台列車に乗る

2013.03.05 インド2日目

前日のこともあり体は疲れていたが、朝9時に目が覚めた。
窓を開け、タバコに火をつけると、インド特有のむしっとした空気が部屋の中を伝う。昨晩は気付かなかったインドの風景が目の前に飛び込んでいた。裸で水を浴びる人、喧嘩をする犬たち…。
「インドに来てしまった」。
今までの常識が常識でなくなる1週間の旅の始まりである。

10時前には宿をチェックアウトし、park streetに向かって歩き出した。土地勘が全くないのと、地図を持っていなかったので、途中ネットカフェに立ち寄った。そこで地図を検索し、iPhoneで写真を撮り、とりあえずはこの地図を頼りにすることにした。

少し歩くと、言い方は悪いかもしれないが、”まさにインド”といった状況に遭遇した。まだ10歳に満たないくらいの男の子が、自分とさほど変わらない大きさの赤ちゃんを抱きかかえ、手を差し伸べてくる。物乞いである。ヨルダンのペトラ遺跡でも同じような状況に遭遇したことがあったが、この時も、インドでも、何もしなかった。
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ちょうどお腹がすいていたので、近くにあったカレー屋に入って腹を満たすことにした。ナンが20ルピーで、バターチキンが70ルピー。ペプシコーラは14ルピーであった。200円ほど。カレーはいつも中辛な私としては本場のカレーは辛かったが、味は絶品だった。
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少し街を散策した後、今日の列車のチケットを確認するため、ハウラー駅に向かって歩き出した。少し距離はあったが、時間もあったため、歩いて向かうことにした。途中通り過ぎた公園では平日だったがカードゲーム?をする人や、昼寝をする人が多くいた。
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ここで少し話はそれるが、インドのスポーツというと頭に浮かぶものはなんだろうか。インドの国技は法令で定められたものではないらしいが、カバディ、クリケット、フィールドホッケーがある。その中でもクリケットはこの旅でも出会う機会が多かった。
駅に向かって歩いていると、大きなスタジアムに出くわした。
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最初は「サッカースタジアムか?」と思ったが、近づいてみるとthe 「cricket association of bengal」の文字が。また、その近くにはクリケットアカデミーも点在した。東インドのクリケットの中心部であろう。多くの人がクリケットをし、その親だと思われる人たちが一挙手一投足に注目し、声援を送っていた。スタジアムの近くには、なぜかサッカーの銅像もあった。

スタジアムを後にし、その後も歩き続けたが、歩けど歩けど駅には着く気配がないので、さすがにタクシーに乗って向かった。後から知ったことだが、川を渡ればすぐに駅があったらしく、対岸に渡ることができる船もあった。駅についた後に時間があったので船に乗ってみたが、5ルピーでインドの風を堪能できた。
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駅に着いてからしたことはチケットのアップデート。ここらへんの交渉は後輩任せだ。本当にありがたかった。それが完了すると、17時に取りに戻ってこいとのことだった。前述の通り、船に乗ったり、駅にあったレストランでハンバーガーを食べて時間を潰した。


約束の時間になったのでオフィスに向かうと「18時まで待て」とのこと。20時発の電車なのに大丈夫なのだろうか。仕方なく、2nd class新台の休憩所に行った。ここは、男女で場所が分かれているので、もちろん男性のほうに。歩いて汗をかいていたので、休憩所のシャワーを借りた。5ルピーであった。今日は列車移動で諦めていたので、かなり救われた。
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チケットも無事に受け取ることができたので、外に出て水2Lを購入した。30ルピー。にしても、安い。20時前に8番ターミナルへ向かい、自分の名前を探す。インドの列車は、入り口に名前入りで場所が記してある。少し探すとあった。自分の名前が現地の文字で書いてあるのが物珍しく、記念に写真も撮った。
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我々が乗車した2nd classの車両は、2段ベッドになっていて、クーラーもあり、寝心地も悪くない。運良く上下でチケットを取ることができた。これも後輩くんのおかげ。ありがたい。3rd classは3段ベッドになっていて、それよりも下になると椅子のみ。10時間以上も硬い椅子に座り続けるのはかなりの負担だと思い、贅沢をしてしまった。
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前野健太を聴きながら、伊藤計劃の小説を読む。ゆっくりと時間は過ぎていく。翌朝の10時40分には、聖地バラナシだ。

続く

インドに上陸

2013.03.04 インド1日目

インド。ついにこの日がきた。
2年前にヨルダン/イスラエル/パレスチナに行って以来の海外だ。高まる気持ちを抑えつつ、成田空港行きの電車を待つ。早い時間帯の飛行機だったため、寝過ごすわけにはいかないと思い、寝ずにそのまま家を出た。

今回も貧乏旅行ということで、特急電車ではなく鈍行電車に乗ると決めていた。この数百円の違いがインドでは大きな差になってくる。時間は余るほどあるので、ゆったりと向かうことにした。

向かいの特急電車のホームでは、多くの人が行列を成していた。3月ということで旅行者が多い時期だ。キャリーバックを持った旅行者、ビジネスマンの姿が目に付く。私が乗った各駅停車の電車の中にも、旅行者の姿が目についた。各々がこれからの旅に想いを馳せながらーー。

うとうとする電車内で、成田空港の文字が見えると、眠気も一気に覚めた。初めての成田空港だったが、迷うことなく無事に搭乗受付を済ますことができた。コルカタにたどり着くまでに3度の乗り継ぎが必要だったが、心強い後輩と一緒だったので、不安も全くなかった。けたたましい音を立てながら鉄の塊は大空へと羽ばたいた。

最初の乗り換えは、北京だった。初めて中国に足を踏み入れた時、彼らから発せられた言葉は歓迎の言葉ではなく、罵声であった。いきなりなんだよ、と思ったが、非があるのは完全にこちら側であった。トランジットの際には、イエローカードの記入が必須なのだが、機内で受け取り忘れてしまい、記入できずに受付に並んでいたのだ。

中国の言葉は一切分からないので、最初は何を言っているんだと思ったが、イエローカードを差し出された時に今置かれている状況に気が付いた。彼らの表情から読み取るに「おいおい、なんでこんな常識的なこと怠ってんだよ。頼むよ」といった具合であろうか。

その場で急いで記入し、無事に入国することができた。とは言っても入国した数時間後にはPM2.5が飛び交うこの国を後にし、今回の最終目的地であるインドに向けて飛び立ったのだが。

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北京、上海、昆明と、中国の大都市を経由し、インドのコルカタに到着したのは、日本を出発してから約17時間後のことであった。

コルカタの空港は、”古びた病院のような場所”という印象であった。コルカタの空港に着いたのはかなり遅かったため空港泊も考えたが、次の日のことを考えると、街に出て宿を探すことを選んだ。

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偶然にも同じ飛行機に乗り合わせた日本人2人を引き連れて、宿が多いというサダルストリートに向かった。約1時間くらい走っただろうか。「着いたぞ」と言われて降りた瞬間、不安感が一気に押し寄せた。

3時近くだったため、当たり前だが人もまばらだ。野犬も多く、我々を見つけると威嚇するように咆哮していた。本当に宿があるのかと思うほど、真っ暗で、犬の遠吠えだけが耳に残った。

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途方に暮れて、行くあてもなく歩いていると、路上で寝ていたホームをレスしているであろう方に話しかけられた。
「宿を探しているのか?ついてこい」
とでも言っていただろうか。我々は藁にもすがる思いで彼の後をついていくことにした。

すると、厳重な扉の中に連れて行かれ、何やら人を呼んでいる模様。こんな真夜中に「おーい!」と扉に向かって話しかける姿に、「おいおい、本当に大丈夫か?」と心の中では思った。少しすると管理人らしき人が出てきた。彼はそこで話をつけてくれたらしい。おじいさんのファインプレーにより、なんとか宿を見つけることができた。

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1人、400ルピーと想定していた値段よりもかなり高くなってしまったが、寝る場所と水シャワー、電源がついていたので妥協して即決した。

しかしながら、彼は紹介料でももらっているだろうか。もしくは「初めてインドに来ました」感が出まくっていた我々のためだけにやってくれたのだろうか。初日からインドに秘められている謎な部分と直面することとなった。

次の日は、寝台列車に乗りバラナシへと向かうことを決めていたため、その日はすぐに眠ることにした。初日からハプニングだらけの1日となったため、気付いた頃にはもう日の出が射し込んでいた。

続く

「ぼくたちは見た」を読み終えて

ぼくたちは見た

数日に分けて、古居みずえ氏の「ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち」を読み終えた。

この本からは、明らかに非がない人々が痛み、苦しんでいる姿を読み取れる。イスラエル軍が行った行為がどれほど非人道的なものだったのか。読み終わった頃には、強い憤りを感じた。

書評を書く前に、さらっとパレスチナ問題についておさらいしておく。
WWⅡ終戦後、自分たちの国を持っていなかったユダヤ人は、イスラエルという国を建国することになる。しかし、建国した場所には、元々パレスチナという国があった。国があるということは、当たり前だがそこで生活している人たちがいるわけだ。そこに、世界中に散らばっていたユダヤ人が「戻って」くる。元々そこにいたパレスチナ人たちからしたら、こんな迷惑なことはない。そして、戦争が起きた。中東戦争である。

そこでユダヤ人が行ったことは何か。それは数年前に自分たちがナチスから受けた「ジェノサイド」だ。大量虐殺をパレスチナ人に対して行った。第一次中東戦争が1948年に起こってから、この問題は現在まで続いている。現在、パレスチナは、ヨルダン川西岸地区とガザ地区がある。イスラエルは、その場所にも入植を進めた。50年以上もこの問題は続いているのだ。圧倒的な軍事力を誇るイスラエルに対して、パレスチナ人は石を投げて抵抗(インティファーダと言う)するくらいしかできない。

この本は、2008年12月から2009年1月に行われた、イスラエル軍の大規模なガザ爆破・侵攻によって被害を受けたパレスチナのガザ地区の子どもたちにフォーカスを当てた取材記。構成としては、サムニ家というある一家の子どもたちに、著者が取材をしたものをそのまま記してある。そのため、子どもたちが語ることは、被る部分がある。だが、サムニ家だけでなく、ガザ地区に住んでいた人々は同じような想いを抱えているだろうと容易に想像できる。この侵攻により、1400人以上の尊い命が奪われたのだから。

サムニ家が住んでいた地区は、農業地区だった。イスラエル軍はこれまで農業地区には攻撃しなかった。だが、この時は違った。農業地区だろうとなんだろうと関係なく攻撃をした。何の罪もない女、子どもに対しても虐殺を繰り返した。そしてその事実を隠蔽しようともした。「パレスチナ側の攻撃に対しての報復行為だ」という言い訳を付け加えて。前述したようなインティファーダが行われた事実も存在しない。普通の生活をしていたところにイスラエル軍が踏み入って、人々を容赦なく攻撃し、殺し、その遺体を、家を破壊することで隠蔽しようとした。

この侵攻により、多くの人が殺された。父親、母親、子ども、いとこ、甥っ子、姪っ子、祖父、祖母…。攻撃を受ける前はともに生活していた人が奪われた。ミサイルを受け、体に大きな穴を開けた人間、顔が剥がれ落ちた人間。自分の親族の肉片が飛び散り、体がバラバラになった遺体を目にした幼い子どもたち。

彼らはよく夢を見るらしい。まだ平和だった頃の夢を。
「お母さんはいつもあなたのそばにいるわ」。
夢のなかでそう語りかけると。惨劇を目の前にして、彼らの心の傷は癒えないほど深いものになってしまっただろう。

文中で特に印象に残ったのは、「平和を望むか?」という著者の質問に対して「望まない。お母さんを殺したイスラエル軍を許さない」と答えたことである。10代前半の子どもの言葉は重く深く心に突き刺さった。

このようなことが世界では起こっているのだ。でも、どうしたらいいのだろうか。もどかしい気持ちはあるが、自分にできることは限られているし、それが解決に繋がるとは到底思えない。

読み終えると同時に、ジャーナリストとして事実を伝えることは大事だが、一個人に訴えかけてもどうしようもないのではないか、という想いに駆られた。

例えば、何も知らない人がこの本をたまたま手にしたとして、この本を読んで、何を思うのか。きっと、世界の不平等さに嘆くことだろう。自分に何ができることはないのだろうか、と考える人もいるだろう。そう考えた人が次のアクションに繋げていくためにフォローができるのかということ。この事実を伝えたことによって、何もできない自分を責める人もいるかもしれない。

今までは、人々に伝えることがまず最初のアクションに繋がると考えていたが、国と国との問題は大きすぎる。

何が正解なのか。
「平和は望まない」という子どもの言葉だけが頭の中に残る。自分の家族を殺した相手に対して、平和なんて望まないよな。この気持ちを解消するにはどうしたらいいんだろうか。

まだ答えは出せないが、いろいろと考えさせられる本でした。
子どもたちの偽りのない証言は、ストレートに心に突き刺さります。

読んだことない方はぜひ。