デジタル化、みたいなブログを昨日書いたので、そこから考えたことを。
先日Twitterでこんなやりとりをして。
@masanarihori 衣食住みたいな、必要最低限なモノに関しては、量を示して受け取り側が自由に選択すればいいと思うけど、それ以外に関しては結局キュレーションなんだよね。うん。ぺろ。
— ミウラ ルー ユウキ (@yuukimiura) 2014, 1月 15
衣食住のモノに関しては、蓄積された情報源が選択するキッカケと成り得る。ウェブサイトで言えば、食べログのような形で、ユーザーが評価をつけて口コミを書き、その蓄積によって、ユーザーが選択する。また、そのユーザーが、情報を蓄積させる。
ただ、それ以外のものを考えてみると、どうだろう。
これは、蓄積した情報では補えない部分であると思う。食に関して言えば、「おいしい」という共通の評価があるのに対して、それ以外、例えば図書館などを例にあげるのならば、評価基準はそれぞれ異なる。蔵書数が多い、静か、雰囲気がいい、おしゃれ、など。異なる評価基準がある場合は、蓄積型の情報は意味を成さない。
キュレーターという言葉を使っているので、元々の語源である美術館を例に出してもそうだ。
食べログ的な方法で、美術作品を決めて、それを展示させる。これは現実的には難しいことだが、超有名な作品ばかり集めても、その美術館の根本となるコンセプトだったり、が損なわれてしまうんじゃないかなと。
「みんなが良いと言っているから」
「あの人が良いと言っているから」
この違いでしょうか。
考えがまとまらないところで、これにて。